#10「ハリウッドを追放された悲劇の喜劇王」チャールズ・チャップリン

非常識人列伝

世界を動かした非常識人列伝 第10話

チャールズ・チャップリン(1889年〜1977年)
笑いの裏に社会風刺を忘れなかった喜劇王

数々のコメディ映画を創り上げた喜劇王チャップリン。同時代に活躍したバスター・キートン、ハロルド・ロイドと並び「世界の三大喜劇王」と称されています。チャップリン映画の特徴はただただ笑いを追求するというものではなく、ユーモアとともに社会への風刺を忘れなかったことではないでしょうか。下町で生きる庶民の喜びや怒り、ペーソスをベースとしたチャップリンの映画は、幅広い層の観客に支持され、いまも数多くのファンを獲得しています。

そんな彼はイギリスの生まれ。5歳で初舞台を踏んだチャップリンは、その後、映画の世界へ。1914年の「成功争ひ」という映画でトレードマークとなった山高帽にだぶだぶのズボンという扮装が誕生したそうです。そして、1915年、いよいよアメリカに移り、快進撃が始まります。「黄金狂時代」が大ヒット、「サーカス」が第1回アカデミー賞で特別賞を受賞。その後も「街の灯」「モダン・タイムス」とヒット作、話題作を連発していきます。

しかし、「モダン・タイムス」で機械文明と資本主義を批判したチャップリンは、次に問題作「独裁者」を発表。この作品はナチス・ドイツを批判しており、たぶんに政治的と受け止められました。この頃から、作風が共産主義的であると言われ始めたのですが、平和を愛するチャップリンの戦争批判は止まらず、「殺人狂時代」の発表によって、彼へのバッシングは最高潮に達しました。

1952年、チャップリンは事実上の国外追放処分を受け、スイスへと渡り、晩年を過ごすことになりました。アメリカを去ってからは、映画への出演も少なくなり、妻や8人の子どもたちと静かに暮らしました。

再びアメリカの地を踏んだのは1972年。アカデミー賞名誉賞を贈られた、その授賞式でした。舞台に登場したチャップリンを、会場にいた全員がスタンディングオベーションで迎えたといいます。1975年にはエリザベス2世からナイトの称号を贈られ、1977年のクリスマスの朝、チャップリンはスイスの自宅で静かに息を引き取りました。

一度は地位も名誉も失ったかに見えたチャールズ・チャップリン。しかし、庶民の幸せと哀しみを見つめ続けたチャップリンの作品は、人々の記憶から消えることはなかったのです。

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