世界を動かした非常識人列伝 第12話
ダルトン・トランボ (1905年〜1976年)
赤狩りに抵抗した流転の脚本家
才能あふれる脚本家、ダルトン・トランボ。彼の作り手としての人生は順風満帆なスタートを切りました。小説家として修行を積んでいた二十代の頃こそ多少苦労しましたが、三十代に入ると、脚本家としてデビュー。1936年に2本の映画が公開され、その翌年には映画化もされた『ジョニーは戦場へ行った』で小説家としてもデビューを果たしました。『恋愛手帖』ではアカデミー脚色賞にノミネート。『東京上空三十秒』『緑のそよ風』など数多くの脚本で評価されキャリアを磨いていったのです。
しかし、やがてトランボは時代の渦に巻き込まれていきます。それは「赤狩り(マッカーシズム)」と呼ばれる弾圧運動でした。第二次世界大戦後、激化する東西対立のなか、著名な共産主義者は見せしめのように召喚され、仲間たちを売ることを強要されたのです。多くの仲間たちが、聴聞会で同志の名前を吐かされる中、証言を拒んだトランボを含む映画関係者10人は「ハリウッド・テン」と呼ばれ、それ以降、苦汁をなめさせられることになります。
そんな時、ウィリアム・ワイラー監督は、かつてトランボが書いた『ローマの休日』の脚本の存在を知ります。しかし、ハリウッド・テンの脚本を使用することが出来ず、トランボの友人である、イアン・マクレラン・ハンターの名前がクレジットされることになりました。
このクレジット問題、ワイラー監督の指示で、トランボの脚本をハンターが手直しして撮影が進められた、というお話が定石になっていますが、実はトランボがハンターの名前で手直しも自らやっていたという説もあるそうです。
オードリー・ヘップバーンが主演した『ローマの休日』は、世界各国で大ヒット。アカデミー賞で脚本賞も受賞しました。もちろん、この時の受賞はイアン・マクレラン・ハンターに対して贈られました。しかし、トランボの死後、ハリウッド・テンに対する名誉は回復。1993年にはあらためてダルトン・トランボにオスカー像が贈られました。
自らのキャリアを手放さなくてはならないほどの選択を迫られたトランボ。しかし、彼は仲間を信じ、自らの信念を貫くことを選んだのです。そう思って改めて『ローマの休日』を観てください。某国の王女と新聞記者が、自分たちの一夜の思い出を守るために、互いを信じ、永遠の秘密を共有していくストーリーは、トランボらしいヒューマニズムに彩られているのかもしれませんね。