#31 「権力嫌いのとんち小僧」一休宗純

非常識人列伝

世界を動かした非常識人列伝 第31話

一休宗純(1394年〜1481年)
皇族の血を引くと言われている室町時代の僧侶

とんち話で有名な一休さん。テレビのアニメ番組にもなったことで、広く知られるようになりました。正式な名前は一休宗純と言います。室町時代に生きた僧侶で詩人でもありました。

一休は天皇の血を引いていると言われています。母親は藤原照子、伊予の局と呼ばれ後小松天皇の寵愛を受けていたそうです。それをねたんだ周囲の目から逃げるように一休は嵯峨野で誕生しました。そのせいか、一休は子どもの頃からえらそうにしている大人を嫌い、得意のとんちでやり込めることも多かったと言います。このあたりのことが、後に語り継がれて「とんちの一休さん」として有名になったのでしょう。

「このはし渡るべからず」と言われ、橋の端っこではなく真ん中を歩く。屏風のトラを捕らえよと命じられて、トラを屏風から追い出すように答える。伝説ではありますが、このように伝えられるほどに子どもの頃から一休の頭の回転は速かったようです。なにしろ、十代で漢詩を作り始め、13歳で『長門春草』、15歳で『春衣宿花』を著したと言います。

そして、大人になってからの一休は、型破りで破天荒な行動をくり返します。えらいお坊様の法要にあえて粗末な着物で出かけてみたり、師匠からの印可状を焼き捨ててみたり。しかし、これらは「見てくれではない」「形ではない」ということを身をもって知らせようとした結果なのでした。そんな一休に人々は魅せられ、絶大な人気を誇っていました。単に型破りなだけではなく、揺るぎない信念をもった人物として尊敬されていたのでしょうね。

その証拠に、晩年、天皇から依頼された大きな仕事を一休は見事に果たします。それは、応仁の乱で炎上した大徳寺の復興でした。豪商が集まる堺に出かけ、一休は再建のための寄進を求めました。これに対して、堺の豪商だけではなく庶民や武士など様々な人が協力しました。そして、5年後、大徳寺は見事に復興。しかし、ここでも一休は権力にすがることをせず、勧められても大徳寺に住むことはありませんでした。

まさに常識外れな人生を歩んだ一休は87歳で亡くなりました。その辞世の句は「一休の禅は一休にしか解らない」。そして、臨終の言葉は「死にとうない」だったと言います。最期まで正直で素直で負けず嫌い。一休はそんな愛おしい偉人だったようです。

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