#34 「自慢の腕力と感情の起伏に自らの運命を弄ばれた男」力道山

非常識人列伝

世界を動かした非常識人列伝 第34話

力道山(1924年〜1963年)
戦後の日本で絶大な人気を誇ったプロレスラー

力道山はまず相撲取りとして1940年に初土俵を踏みます。関脇にまでなりますが、酒に酔うと暴力を振るうことから周囲に疎まれ、それが原因で角界を引退。彼は新天地をプロレスに求めます。当時、まだ敗戦から立ち直っていなかった日本で、プロレスは、アメリカ人レスラーを日本人がやっつけるというシンプルなショーとして人気を博しました。さらに、日本の国技である相撲からの参戦と言うことで、力道山の試合は注目され、プロレスは大人気となりました。

1963年、東京体育館で行なわれたWWA世界ヘビー級選手権で、ザ・デストロイヤーと戦った試合は、平均視聴率64%を誇り、現在でも語り継がれているほどです。この時の試合では、四の字固めを完璧に決められているにも関わらず、力道山はギブアップしませんでした。結局、両者続行不可能としてレフェリーは引き分けを言い渡しました。

それほど、力道山は身体の強さに恵まれていたのです。「試合で額を割って流血しても、赤チンを塗ると約10分で血が止まる」「ガラスのコップをバリバリとかみ砕いて飲み込む」など、無茶なことをくり返して、自分の肉体を誇らしげに自慢していたそうです。そんな肉体への過信、そして、もともと粗暴な性格が相まって、力道山は生き急ぎます。

1963年、暴力団員と「足を踏んだ」「踏まない」という些細なことから取っ組み合いになり、ナイフで刺されるという事件が起こります。腹を刺された力道山は病院に運ばれ手術を受けました。手術は成功。しかし、自分の体力を過信した力道山は傷も癒えていないのに、暴飲暴食をくり返し、傷口が悪化。そして、再手術をして、この時も成功したのにもかかわらず、さらに暴飲暴食をくり返して、結局亡くなってしまったのでした。

感情の起伏が激しく、決して引かない負けず嫌いな性格と、なまじ強靱な身体を持っていたことが、力道山を大スターにし、同時に、早死にさせてしまったのです。池上本門寺には、力道山が力強く腕組みしている胸像がいまも凛々しく立っています。

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