#38 「役者として生き抜いた怪優」松田優作

非常識人列伝

世界を動かした非常識人列伝 第38話

松田優作(1949年〜1989年)
日本の俳優であり、歌手

松田優作は1972年、劇団『文学座』からキャリアをスタートさせました。そして、入団後間もない1973年に伝説の刑事ドラマ『太陽にほえろ!』に抜擢され、ジーパン刑事として圧倒的な人気を得ました。その殉職シーンはいまだに語り継がれるほどの熱演で、多くの俳優たちから、その死後もリスペクトされています。

『太陽にほえろ!』が終了すると、松田優作は精力的に映画やテレビドラマに出演します。あるとき、脚本家・向田邦子のドラマに出演したのですが、共演者だった桃井かおりと大げんかになったそうです。その理由は、桃井曰く「この手のドラマねって感じで優作が来たのよ。それで頭にきちゃって」。桃井が「もう二度と口を聞いてくれないんじゃないかと思った」というほどの大げんかだったそうですが、その深夜、松田優作は桃井に電話をかけ「改めて脚本を読むと面白い。いまからでも取り返しがつくだろうか」とわびました。それ以来、『家族ゲーム』などのホームドラマや『陽炎座』などの文芸作品でも強く印象に残る演技を見せたのです。

1988年、彼は吉田喜重監督の『嵐が丘』に出演。カンヌ映画祭のコンペ部門に参加しました。この時、映画祭に出席した松田優作は帰国後こう語りました。「カンヌでは惨めなもんじゃった。外人は日本の役者など相手にしてくれん…。俺は絶対に日本の映画を変えてやるんじゃ」と。そして、同じ年に彼はハリウッドへと旅立ちました。

映画のタイトルは『ブラックレイン』。監督はリドリー・スコット、主演はマイケル・ダグラスと日本の高倉健。そうそうたるスタッフ・キャストのなかに松田優作はオーディションで選ばれました。しかし、その少し前から、彼は病魔に冒されていたのです。撮影が始まった時点では自分が膀胱がんに冒されていることを知っていましたが、周囲には一切漏らしませんでした。延命治療を拒み、念願のハリウッドデビューを優先し撮影を続けた松田優作。そこには「日本の映画を変えてやるんじゃ」という恐ろしいまでの執念がありました。

1989年11月6日。『ブラックレイン』の日本公開の1ヵ月後に松田優作は40歳で亡くなりました。

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