#69 「町工場から世界の技術を生み出した男」本田宗一郎

非常識人列伝

世界を動かした非常識人列伝 第69話

本田宗一郎(1906年〜1991年)
日本の技術者、実業家。本田技研工業の創業者

日本のものづくりを語るとき、本田宗一郎の名は特別な熱量を持っていると言えます。小学校を出た後、自動車の修理工場で働き、やがて自分の工場を持ち、そこからものづくりに熱中。自動二輪、自動車、そして、飛行機へとフィールドを広げていきました。また、F1などのモータースポーツにも積極的に参加して、自分たちが生み出す製品の社会的な価値を高めていく提案をし続けました。

本田宗一郎が最初に自動二輪の開発に取り組んだのは、妻への愛情があったからです。終戦後、自転車で買い物などに走り回る妻を見て、宗一郎は「自転車にエンジンを付ければ便利だろう」と思い立ったといいます。この妻への愛情と、人への心づかいは宗一郎の人柄の根幹を成し、同時にホンダという企業の中核を成していると言えます。

本田宗一郎は根っからの技術者でした。しかし、たたき上げの技術者ですから、すべてが理論的なわけではありません。ホンダがこれからのエンジンを空冷式にするのか、それとも水冷式にするのか、という議論になったとき、宗一郎は「砂漠でエンストしたとき、水なんかあるのか」と言い放ち、空冷式で押し切ったそうです。しかし、これが若手エンジニアの反発を招き、幹部の出社拒否騒動にまで発展。技術的に水冷式のほうが優れていると知った宗一郎は、「自分は技術がわからなくなったのかもしれない」と社長を退きました。

しかし、ホンダが世界に認められる企業になってからも、宗一郎は社内外から多くの尊敬を集めました。それは、人を職業や学歴で区別することなく、同じ人として愛することが出来る資質があったからでしょう。社長退職後、宗一郎はホンダのディーラーにお礼参りをしました。その時、ある店舗で整備担当が握手を求めてきたのです。しかし、その整備担当は自分の手が油だらけであることに気づき、手を洗いに行こうとしました。宗一郎は、彼を止め、その油まみれの手を力強く握り締めたといいます。

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