#87「世の中をひっくり返す、元祖コペルニクス的な発想の持ち主」ニコラウス・コペルニクス

非常識人列伝

世界を動かした非常識人列伝 第87話

ニコラウス・コペルニクス(1473年〜1543年)
ポーランドの天文学者、カトリック司祭

これまでの考え方を180度ひっくり返すような発想の転換をコペルニクス的転回と形容します。今回はその本家本元の登場です。では、コペルニクスはいったいどのような分野でコペルニクス的な説を唱えたのでしょう。それは、天文学の分野です。当時主流だった地球中心の地動説を大きく覆す地動説を唱えたのでした。

地動説自体は紀元前三世紀から存在していたそうですが、コペルニクスはこれを天文学の観察の積み重ねの上で確かな発見としたのです。コペルニクスはカトリックの司祭でした。大学で学んだ後、リズバルクにある司教宮殿に住みました。ここで、彼は聖職者として医師として多忙な日々を送るようになったのです。しかし、仕事の合間に天体観測を続け、自分自身の考えである地動説の証拠となる理論的な裏付けを行いました。

1510年、コペルニクスは『コメンタリオルス』をまとめ、地動説を初めての公にしました。しかし、これは数名の友人たちだけに送られたもので、彼は広く地動説を説くことをしなかったのです。その理由は彼がカトリックの司祭であったからに他なりません。

万一、自説が間違っていれば、教会に大きな打撃を与えてしまう。そんな気持ちもあったためか、コペルニクスは生前、地動説についての出版をなかなか実行しませんでした。1533年には教皇クレメンス7世にも地動説の考えが伝えられ、1536年には枢機卿の一人ニコラス・シェーンベルクからも賞賛の手紙を受け取っているにもかかわらずです。

1539年、大学教授ゲオルク・レティクスはコペルニクスのもとを訪れ、地動説の話を聞くと感銘し弟子入りを志願しました。コペルニクスはここで生涯唯一の弟子を取ることになったのです。そして、レティクスは誰よりも深く地動説の理解者となり、誰よりも強く理論の出版を勧めました。ここでコペルニクスはやっと重い腰を上げ、1542年『天球の回転について』の草稿が完成。印刷を待つばかりでしたが1542年11月にコペルニクスは脳卒中で倒れ、1543年5月24日に70歳でこの世を去ってしまいました。『天球の回転について』の校正刷りが届けられたのは、まさに彼が亡くなった日だったそうです。

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