#92「日本史上最高の俳人は忍者だった?」松尾芭蕉

非常識人列伝

世界を動かした非常識人列伝 第92話

松尾芭蕉(1644年〜1694年)
江戸時代の俳諧師

松尾芭蕉は江戸時代中期の人で、日本各地を旅しながら数多くの俳句を残したことで知られています。これまでにたくさんの俳人が存在した中で、芭蕉が後生にまで名を知られているのは、旅先で見た風景から発した分かりやすい句が多いからかもしれません。

代表作である『おくのほそ道』は、1689年に弟子の曾良とともに旅にでることでスタートしました。「夏草や兵どもが夢の跡」「閑(しずけ)さや岩にしみ入る蟬の声」「五月雨をあつめて早し最上川」など、いま聞いても目の前に風景が浮かんでくるようです。これらの素晴らしい句を詠みながら芭蕉たちは江戸深川を出発し、150日間、約600里(2400キロメートル)を歩きました。

と、ここまではよく知られた話なのですが、実はこの俳句の達人には、実は忍者だったのではないか、という説があるのです。実はその根拠となっているのは芭蕉自身が忍者発祥の地と言われる三重県伊賀上野の出身だということ。また、『おくのほそ道』に書かれている内容に不自然な部分が多いということ。これらを総合して、芭蕉は忍者であり、『おくのほそ道』の旅は隠密旅なのではないか、という説が浮上したようです。

松島に立ち寄っているけれど、本当は仙台の伊達藩に立ち寄ったのだ、とか。1日に40kmも歩けたのは忍者だからに違いない、とか。自由に動ける通行手形があったのも幕府の命を受けた隠密旅だったからだ、とか。様々な説がありましたが、それらは芭蕉の功績の大きさ故に、後生の人たちが面白おかしく解釈した結果だろうと言われています。

『旅に病んで夢は枯野をかけ廻る』1694年、芭蕉は病に倒れ、伏せっているなかで、この句を詠みました。そして、それから数日後に亡くなるぎりぎりまで、この句の最後を「なほかけ廻る夢心」にするか「枯野を廻るゆめ心」にするかで悩んでいたと言います。芭蕉が忍者だったかどうかは定かではありませんが、俳句を愛し、最後まで俳句と共に生きた人であったことは間違いないようです。

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