#108「わび茶を完成させ、切腹を迫られた茶聖」千利休

非常識人列伝

世界を動かした非常識人列伝 第108話

千利休(1522年〜1591年)
戦国時代から安土桃山時代にかけての茶人

茶聖と呼ばれた茶人・千利休はわび茶を完成させた人物として知られています。大阪・堺の商家に生まれ、20代の頃から茶の道で頭角を現すと共に、商品としての才覚も認められていたようです。そして、この芸と商いの才能を併せ持ったことが、後に利休と天下人・秀吉を結びつけました。

もともと織田信長の茶堂として召し抱えられた利休ですが、本能寺の変以降は豊臣秀吉に仕えることになります。しかし、わびさびを愛し、わび茶を究めようとしていた利休の茶の道は、派手好きな秀吉の好みとは相反していたという説があります。

例えば、利休と秀吉とのエピソードとして語り継がれているものに、一輪の朝顔の話があります。ある時、利休が秀吉を茶会に誘いました。庭に朝顔が咲き誇る季節になりました。この朝顔を見ながらお茶をいかがですか? という誘いです。どれほど見事な朝顔が咲き乱れているのかと秀吉が訪れてみると、利休の屋敷に朝顔は一輪もありません。すべての朝顔が花を切られていたのです。いぶかしげに茶室の戸を開けて秀吉が入ってみると、その茶室にはたった一輪の朝顔が飾られていました。たった一輪だからこそ、見事に美しく見える朝顔。秀吉は究極の美学に感嘆したと言います。

しかし、それは裏を返せば、「何万人もの首をはね、一人美しく咲こうとしているのは、秀吉様、あなた自身です」という意味にも捉えられます。また、そこまで深読みをしなくても、利休の天才的なアイデアに俗なところが多かったと言われる秀吉は毎回ぐうの音も出なかったわけですから、次第に嫉妬や妬みが募ってきたとしても不思議ではありません。

1591年、突如、利休は秀吉に切腹を命じられました。これは大徳寺の山門の上に利休の木像を設置したことが原因だというのが定説です。その木像が雪駄を履いていたため「雪駄履きの下を天下人に歩かせるのか」と怒りを買ったというのです。多くの弟子である大名たちが助命に奔走しましたが敵わず、利休は切腹しました。そして、その首ははねられ、自身の木像に踏みつけられる格好でさらされたそうです。利休と秀吉、どちらも常識では収まらない人だったことは確かで、だからこそ、その蜜月は長くは続かなかったのかもしれません。

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