#125「死を恐れながら作曲を続けた作曲家」グスタフ・マーラー

非常識人列伝

世界を動かした非常識人列伝 第125話

グスタフ・マーラー(1860年〜1911年)
オーストリア・ウィーンの作曲家・指揮者

マーラーは音楽にゆかりのある家に生まれたわけではありませんでした。父親は子どものころ境界の合唱団にいたそうですが、成人してからは仕事に打ち込む真面目な人だったと言います。マーラーが音楽と出会うのは、遊びとしてだったようです。4歳の頃にアコーディンを弾き、5歳の頃には祖父母の家の屋根裏でピアノを触ってい遊んでいました。そんな様子を見て父親は息子が音楽家に向いているのではないかと確信したそうです。

実際にマーラーは10歳で町の音楽会にピアニストとして出演。15歳でウィーン国立音楽学校に入学して、ピアノ、和声学、対位法、作曲を学びました。この頃から才能を発揮し、作曲でも頭角を表しはじめたのです。しかも、彼は作曲だけではなく指揮者としても高く評価されていたのです。

しかし、マーラーは頑固一徹な性格だったと言います。そのため、周囲の人々から反感を買うことも多く、すべての人に好意を持たれているとは言えない状況でした。例えば、指揮をするときにも完璧を求めるあまり高圧的な態度に出てしまうのです。いらいらして床を踏みならしたり、うまく演奏できなかった団員に指揮棒を突き出しみたり。なかには「いつか仕返してやる」と公言する人物もいました。

才能に恵まれ、高い評価を得て1903年には皇帝から勲章も授与されているのに、マーラーの不安との戦いは年々強まっていきました。そして、彼を最も追い詰めたのは『第九の呪い』だったのかもしれません。

ベートーヴェンが第九を完成させたあと、『交響曲第十番』を完成させる事無く死んでしまった頃から、当時の音楽関係者の間では、『第九の呪い』という噂話が流布されていました。いわく、第九を書くと死んでしまう。もちろん、多くの作曲家たちは冗談半分だったのでしょうが、マーラーはあまりにもナイーブでした。彼は『交響曲第八番』を完成させたあと、第九の呪いを恐れて次に作った交響曲を交響曲として認めませんでした。『大地の歌』と名付けられたこの曲は無事に世に送り出されました。これに安心したのか、マーラーは次の交響曲を第九と名付けましたが、しかし、その次の第十番はやはり未完に終わってしまったのです。

そのナイーブさと、一徹さ。そして、自信たっぷりに仕事を進める態度と死を恐れる臆病さ。そんな彼が死の間際に叫んだ言葉は「モーツァルト!」だったと言います。

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