#204「バリの父と呼ばれた日本人実業家」三浦襄

非常識人列伝

世界を動かした非常識人列伝 第204話

三浦襄(1888〜1945)
インドネシア解放を信じた日本の実業家

三浦襄(みうらじょう)は仙台に生まれました。父親が教会で働いていたこともあり、大学在学中にビジネスと伝道を兼ねて設立された南洋商会に入りました。そして、1909年にはジャワ島のスマトランへ渡航。半年ほどして南洋商会を辞めると、そのまま南洋の島々を巡る度に出たのです。いったん日本に帰国して結婚すると再び南洋も島へ。1930年にバリ島への移ると自転車の修理業を始め、「自転車屋の日本の旦那」と呼ばれ親しまれようになりました。

しかし、平和な日々は続きません。太平洋戦争が勃発、一度日本に帰国した三浦ですが、今度は召集され軍人としてバリ島に上陸しました。当時の日本人がみなそうだったように、三浦も戦争の大義を信じていました。つまり、日本がバリ島を統治下に収めているのは、やがてバリ島を、インドネシアを独立解放するためだと信じていたのです。

三浦はインドネシアの独立のために必死で働きました。軍からも地元の住民からも絶大な信頼を得て、彼は日本とインドネシアの橋渡し役として、できる限りの努力を続けたのです。

1944年当時、三浦は体調を崩す、療養のために日本に帰国していましたが、「インドネシアの人々との約束を果たさないまま帰国していては、日本人の信用をなくす」と再びバリ島へ。しかし、間もなく太平洋戦争は終戦を迎え、敗戦国である日本がインドネシアの人々との約束を果たすことは不可能となりました。

三浦は責任をとってピストルによる自決を果たしました。この時、三浦が自決した理由を三浦の側近たちは後に次のように語りました。「戦時中、日本が戦争に負けたら日本人は武士道にのっとって腹を切る、とバリの人たちに言ってきた。しかし、敗戦になっても誰も自決しない。このままでは日本人は嘘つきだと思われると考えた三浦は、日本人を代表して自決したのだ」と。

通常、敗戦国の人間の葬儀が許可されることはありません。しかし、進駐してきたオーストラリア・オランダ軍は三浦の葬儀を許可しました。そして、「三浦襄はバリ人のために生き、インドネシアの独立のために死んだ」と刻まれた墓碑が建られたのです。現在もインドネシアのデンパサール市に三浦襄の墓はあります。

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