#211「茶道マニアとして道を究めた男」古田織部

非常識人列伝

世界を動かした非常識人列伝 第211話

古田織部(1543〜1615)
茶道・織部流の祖

古田織部の名前で知られる茶人、古田織部は戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍しました。生まれたのはあの徳川家康と同じ年です。もともと斎藤道三の配下にいた武家でしたが、信長が美濃を支配すると織田家の家臣になりました。その後、豊臣秀吉の家臣となり、官位を授かるようになったと言われています。

戦国時代は茶道が盛んでした。というよりも、茶道の一大ブームが巻き起こっていたと言っても過言ではありません。当時、茶道の頂点にいたのは千利休。古田も利休と出会い、「利休七哲」の一人と称されるほどでした。しかし、利休が秀吉から疎まれるようになり、追放されたとき、古田は細川忠興と二人で見送ったそうです。

古田に大きな影響を残した利休ですが、彼はちょっと変わったものを好むという癖がありました。例えば、形見として忠興へ送った「ゆがみ」という茶杓。これは「曲がっていても、それはそれで良さがあり美しさがある」という独特の価値観から生まれたものでした。しかし、利休は曲がったものを愛するかと思うと、逆に「たまには涙をこぼすくらいまっすぐなものも気持ちいい」と、「泪(なみだ)」という茶杓を古田に残しています。

そんな利休の教えに心酔した古田は、利休よりももっと自由でもっと人間らしい欲望に素直な人でした。好きな茶碗を作るためなら、どこへでも行く。歪んだ茶碗がいいと思えば、どこまでも歪ませる。そんな自由なクリエイティブに人々は古田をへうげものとよぶのでしょう。「へうげもの」とは「自由な発想。ひょうきんな人」という意味だそうです。

ある日、利休の弟子が集まっていました。もちろん、古田も。そこで利休が「瀬田の唐橋の擬宝珠のなかに見事なかたちのものが二つあるのだが、見分けられるものはいるか?」と聞いたそうです。擬宝珠というのは、橋の欄干についている玉ねぎのような形をした飾りのことですね。すると、古田はすっと席を立って、夕方まで帰ってきませんでした。やがて帰ってきた古田に利休が聞いたそうです。「瀬田まで馬を走らせて見に行ってきました。東と西の二つですね」と古田は答えました。その時、古田の美に対するすさまじいまでの姿勢に、利休も感心したそうです。

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