世界を動かした非常識人列伝267話
井上馨(1836〜1915)
日本の政治家
井上馨は長州藩の井上光享の次男として現在の山口県に生まれました。西洋では近代的な文明が花開き、鎖国されていた日本でも、西洋への好奇心がピークに達していました。長州藩士となった井上は、遠藤謹助、井上勝、伊藤博文、山尾庸三とともにイギリスへと密航。そこで学んだ近代文明を日本に持ち帰り、日本の近代化・工業化に大きな功績を残したのです。現在では、この五人の若者を長州ファイブと呼び、評価する気運が高まっています。
彼らがイギリスへ密航している最中に、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの連合艦隊が日本の下関を砲撃。長州ファイブの面々は急遽日本に帰国しますが交渉には間に合わず、下関戦争が勃発します。結果、長州藩は敗北し、井上たちはイギリス艦隊に乗り込んで通訳として和平交渉にあたりました。激動の時代の中で、井上は暗殺未遂にあい重症を負ったりもしましたが、時代を変えたいという使命感はより強くなり、討幕運動にのめり込んでいきます。
明治維新後、井上は長州閥の一人として、明治政府の要職に就くことになります。紆余曲折する明治維新後の世界で、井上は日本が文化的な国であるということを諸外国に知らしめようとしました。迎賓館として鹿鳴館を造ったのはそのためです。井上の政策はうまくいくものもうまくいかないものもありました。しかし、その積極的な取り組みへの評価は高く、外務大臣、農商務大臣、内務大臣、大蔵大臣などを歴任。1901年に第一線を退いてからも元老院として勢力を誇り続けました。
井上の生涯は慌ただしいほどに様々な出来事に彩られていましたが、その理由はおそらく彼が「雷親父」と呼ばれるほどの短気だったこと。だからこそ、目の前の課題に積極的に取り組むことができたのです。しかし、井上自身に功名心はなかったそうです。弟分だった伊藤博文から頼まれると、自分に分の悪いことでも引き受け、悪評の身代わりになったこともあったと言います。また、腹心だった渋沢栄一と一緒にいるときには怒らなかったと言われ、渋沢は井上の避雷針だと言われていたそうです。