世界を動かした非常識人列伝279話
宇田川潤四郎(1907〜1970)
家庭裁判所設立に尽力した裁判官
テレビドラマに登場する人物のモデルとしても知られるようになった宇田川潤四郎。東京生まれの宇田川は大学卒業後、高等試験に合格して裁判官になりました。31歳のときに満州への赴任を命じられ活躍。裁判官を務めた後、司法教育機関の教官として満州の人たちに法律を教えたそうです。
しかし、第二次世界大戦に敗戦すると満州にはソ連軍が数多く攻め込んできました。戦争犯罪者として指名手配されながらも、宇田川は教え子たちの協力もあって1946年に無事日本に帰国。そこで見た光景がその後の宇田川の人生を大きく変えたのです。それは、街をさまよい歩く孤児たちの姿です。親兄弟を亡くした孤児たちのなかには犯罪に手を染める者も多くいました。宇田川はそんな孤児たちを救おうと考えました。
京都少年審判所の所長になった宇田川は少年たちを更生させるためのボランティア団体「京都少年保護学生連盟」を組織、同時に宇治に少年院を作りました。さらに昭和24年に家庭裁判所が設立されることになると、宇田川は最高裁の初代家庭局長に任命され、家庭裁判所の設立に向けて尽力したのです。
当時はまだ、家庭裁判所について懐疑的な考えをもつ人も多くいましたが、宇田川は様々なアイデアを駆使して家庭裁判所の意義をとなえ続けました。「家庭に光を 少年に愛を」というスローガンを掲げてポスターを作ったり、ラジオに出演したり、いろんなアイデアをカタチにして、宇田川は家庭裁判所が少年たちにとってどれだけ重要なものなのかを説いて回ったのです。
宇田川の最後の仕事は、少年法の適用を20歳から18歳に引き下げようとした法案への反対でした。この法律が適用されると家庭裁判所で18歳から19歳の少年たちの審判が扱えなくなる。危機感を覚えた宇田川は必死でした。しかし、当時、宇田川は病魔におかされていたのです。発熱と下痢に悩まされながらも、1970年、宇田川は『少年法改正問題について』という上申書を最高裁に提出。それから10日後、「少年法改正のこと、家庭裁判所の将来が心配だ。あとを頼む」そう言い残して彼は息を引き取りました。享年63歳でした。