#187「やむにやまれず子どもたちに声をかけ続けた女性」石綿貞代

非常識人列伝

世界を動かした非常識人列伝 第187話

石綿貞代(1897〜1989)
私財を投じて戦争孤児を救った人

終戦後間もない1940年代の半ば。大空襲によって焦土となった東京には戦争孤児が溢れかえっていました。特に上野駅などの駅舎の大きな場所には雨露をしのぐために、戦争によって親をなくした子どもたちが集まっていたのです。戦争孤児の数は全国で約12万人いたと言われています。そんな戦争孤児を当時は「駅の子」と呼んでいました。彼らがかわいそうな身の上であることは、みんなが知っていました。しかし、彼らを救う余裕は誰にもありませんでした。誰もが自分の身の振り方に必死だったのです。

そんな中、上野駅には彼らに声をかける女性がいました。中野区に住んでいた石綿貞代です。貞代は1945年に自宅に一人の戦争孤児を引き取ったのをきっかけに、次々と孤児たちに声をかけ、一次は自宅が100人以上の孤児たちが暮らす場所となったのです。

貞代はすぐに「戦災孤児救護婦人同志会」を設立。毎日のように上野駅に通っては身寄りのない孤児を見つけ「うちに来る?」と声をかけ続けたのです。当初は施設としての環境が整っていなかったので、受け入れた孤児たちを家族同然で迎えました。風呂に入れ、一緒に食事をして寝かしつける。貞代の口癖は「人間は食べないとだめ」というものでした。自分の着物や自宅の応接セットを売ってでも、子どもたちの食費を捻出したそうです。

しかし、愛情豊かに接したからと言って、みんなが良い子というわけにはいきません。応接間に置いてあった大理石の時計を孤児が持ち去ってしまったことも。その孤児は時計を売り払い、やがて時間をおいて帰ってきたそうです。そんな時、貞子は叱らずに「よく帰ってきたね」と迎えたと言います。

中には施設から逃げてきた子もいたそうですが、彼らは名前を明かそうとしませんでした。名前を知られると、元の施設に連れ戻される可能性があるからです。貞代は自分で役所に掛け合い、個性を作ることまでしたそうです。ただただ目の前の戦争孤児たちを放ってはおけなかった。そんな貞代の愛は多くの戦争孤児を救い、いまも恵まれない家庭環境の子どもたちを迎え入れる施設の礎となっています。

タイトルとURLをコピーしました