#252「ピュアな天才嘘つき歌人」寺山修司

非常識人列伝

世界を動かした非常識人列伝252話

寺山修司(1935〜1983)
日本の歌人・劇作家

青森に生まれ育った寺山修司は、中学生の頃から文芸部に入り、俳句や詩、童話などを学校新聞に書き始めたそうです。高校に入ると俳句会を結成し、高校一年の終わりには学校内の俳句大会を主催するなど早熟でした。寺山の歌人デビューは早稲田大学に入学してすぐでした。短歌雑誌に掲載された寺山の歌は高く評価され注目されました。しかし、真に新しいものを欲しない保守的な歌壇の体質を寺山は見抜きます。のちにインタビューで「職業は寺山修司」と答えた寺山は、短歌を自己表現の一つだと考えていたようです。

その後の寺山は短歌だけではなく、知り合った詩人の谷川俊太郎の勧めでシナリオ作家としてラジオドラマを書き、現代詩を書き、劇団「天井桟敷」を結成して演劇の分野にも進出します。演劇では海外公演にも招かれるなど、その評価は高まる一方でした。その後、寺山は劇団の仲間と数々の実験的な映画を作り、1971年には『書を捨てよ、町へ出よう』で劇映画の監督としてデビューします。この映画はサンレモ映画祭でグランプリを獲得。同じ頃、ロッテルダム国際詩人祭では自作の詩を朗読。さらに演劇では『人力飛行機ソロモン』『邪宗門』を海外で公演。『邪宗門』はベオグラード国際演劇祭でグランプリを受賞します。そして、1974年に映画『田園に死す』が文化庁芸術祭奨励新人賞を受長すると、寺山は一気に時代を代表するクリエイターとしてピークを迎えました。

日本だけではなく世界に名前を知られるようになった寺山修司。彼の作品の特徴はあの世とこの世、嘘と真実の曖昧な境界線にあったようです。まるで見てきたかのように想像の世界を語り、真実の世界を嘘で切り裂くような鋭さは、寺山自身の日常生活にも少しずつ影響を及ぼしていたのかもしれません。晩年は病に苦しんだ寺山ですが、その母は「誕生日にはいつも花を持ってきてくれるような優しい子なのに、短歌では亡き母と書いたり、母への恨みつらみが書かれていた」と息子の創作の複雑さを振り返りました。

タイトルとURLをコピーしました