#189「カミカゼ作家と呼ばれた昭和の作家」花登筺

非常識人列伝

世界を動かした非常識人列伝 第189話

花登筺(1928〜1983)
関西の喜劇を支えた作家・脚本家

昭和30年代から50年代にかけての高度経済成長期は、人々が貪欲に娯楽を追求した時期でもあります。身の丈に合った喜びがあればいい、と謙虚に暮らしてきた日本の人々がまるでゴールドラッシュに沸いたかのように活気に満ちた時期を過ごしました。それは、戦後の焼け野原から立ち上がった自らの姿を励みとしながら、もっとできる、もっと行けると前進し続けたのです。

この時期、大阪を中心とする関西圏も活気に満ちていました。今よりももっと強く東京を意識し、「東京には負けへん」と歯を食いしばった人が数多くいたのです。松下電器産業(現・パンソニック)、京セラなど、東京に本社機能を移管することに抵抗した大手企業もたくさんありました。

そんな関西の負けん気を小説、脚本という形で量産したのが花登筺です。花登筺は滋賀県大津市の出身。近江商人、大阪商人を主人公にした商魂たくましいドラマを次から次へと執筆しました。特に多かったのは脚本ですが、生涯に書いた脚本の数は6000本を超えると言われています。最盛期には月に原稿用紙2000枚から3000枚を書いていたというから驚きますね。

主な作品は「細うで繁盛記」「どてらい男」「あかんたれ」「鮎のうた」「アパッチ野球軍」(アニメ)などなど、数え切れないほどですが、もっとも世間に衝撃に与えたのは晩年に書いた自分史「私の裏切り裏切られ史」でしょう。さすがに書くことで人生を送ってきた花登筺。50代の終わりに大腸癌になり病床に臥せっているあいだも、死に物狂いで文章を綴りました。そして、最後の作品となったのが、この「私の裏切り裏切られ史」だったのです。

喜劇の脚本家として力を発揮した花登筺ですから、興行会社や喜劇役者たちとも強い絆を誇っていました。もちろん、同時に誤解や損得勘定を発端にした人間関係の軋轢も生み出します。自分で旗揚げした劇団の分裂や主演女優との不倫騒動など、周囲の人たちを巻き込んで、それこそ「裏切り裏切られ」の人生となったのです。

そんな自分自身の想いを病床で書き綴り、新聞に連載したのですから関西の喜劇界は大騒ぎ。しかし、SNSなどない時代です。マスコミ発の発言は強く、そして、収束も早かったのでしょう。やがて、時代に咲いたあだ花のように花登筺の作品と人となりは、昭和を生きた人々の記憶のなかにそっと残るようになりました。

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