世界を動かした非常識人列伝 第207話
前田光世(1878〜1941)
日本からブラジルへ帰化した柔道家
格闘技に携わる人たちにとって、前田光世の名前は神のごときものである、といっても過言ではありません。なにしろ、前田は日本の柔道をブラジルへ持ち込み、さらに独自に進化させることでブラジリアン柔術の礎となしたのです。さらにブラジルで完成した充実は日本の格闘技ブームによって日本に逆輸入され、いまでは格闘技と言えばブラジリアン柔術なくしては語れない存在になっています。
前田光世は1878年(明治11年)に青森で生まれました。子どもの頃から相撲が得意で、中学からは柔術を習い始めます。その後、東京に大学に進学し、1897年には19歳で講道館へ入門しました。ここで、前田の才能が開花。昇段審査では、なんと15人抜きを達成したのです。そして、1904年には柔道の国際的な普及を目的としたメンバーとして、アメリカに派遣されました。柔道の強さを海外に伝えようという決意に燃えていた前田は約16ヵ国で異種格闘技戦を行い、なんと2000戦無敗だったというから驚きです。
しかも、連戦を続ける過程で、前田の柔術は独自の進化を遂げ、ナイフをもつ相手の上腕を締め上げたり、投げた後に頸動脈を絞めるなど、実践的な時代の柔道に近いものでした。日本国内では柔道がどんどんスポーツ化し、ルールが詳細に決められていったのとは逆の道を歩んだということになります。
この前田の柔術に、ブラジリアン柔術の創始者であるカーロス・グレイシーが出会い、グレイシー柔術として普及。これが現在のブラジリアン柔術として日本に逆輸入され、いまではいたるところに道場が開設されています。
その後、前田はブラジルにやってきた日本人移民の相談に乗るなど、彼らの生活向上に尽力。差別や貧困に打ち勝つため、移民救済の地としてブラジル北西部のアマゾン流域を開墾しようとしました。しかし、持病の悪化もあり、彼は自らの夢の実現を見ぬまま亡くなりました。享年63歳。最期の言葉は「日本の水が飲みたい」だったそうです。