#245「和製ポップスの道を切り開いた作曲家」服部良一

非常識人列伝

世界を動かした非常識人列伝245話

服部良一(1907〜1993)
日本の作曲家・編曲家

服部良一は日本に明るく楽しいポップソングを持ち込んだ作曲家として知られています。1926年には大阪フィルハーモニック・オーケストラにフルートとして入団。服部はオーケストラで働きながら、ジャズ喫茶のピアノ弾きもしていました。ジャズは服部にとって自由を象徴する音楽であり、その後の人生を決定付ける存在となりました。

1936年にコロンビアレコードの専属となった服部は、入社した年に作曲した『おしゃれ娘』が淡谷のり子によってリリースされ注目を集めました。翌年に作った『別れのブルース』もヒットし、服部は誰もが認める作曲家となったのです。霧島昇・渡辺はま子の『蘇州夜曲』、中野忠晴の『チャイナ・タンゴ』、高峰三枝子の『湖畔の宿』、今も歌い継がれている『山寺の和尚さん』などがいずれも大ヒットしました。

人気作曲家となった服部ですが、太平洋戦争の勃発とともに、ジャズ音楽は適性音楽として目をつけられます。音楽の世界は軍歌一色となり、服部はつくづく嫌気がさしてきました。そんな1944年、服部は中国の上海に渡ります。一説によると、軍歌の作曲依頼から逃げるためだったという話があります。ジャズに自由を見出していた服部ですから、日本で軍歌の作曲を受けるくらいなら、上海に渡ってでもジャズがやりたかったと考えても不自然ではありませんね。

戦後はジャズのスイングを大胆に取り入れたブギのリズムに傾倒。笠置シヅ子とともに『東京ブギウギ』『ヘイヘイブギ』『買い物ブギ』をヒットさせブギウギの一大ブームを巻き起こしました。大御所となった服部は古賀政男とともに日本作曲家協会や日本レコード大賞の創設に尽力し、音楽業界の発展に尽くしました。

服部の人生を振り返るとき、もし戦中のあの時、上海に渡らずに軍歌の作曲を続けていたらどうなっていたのかと考えてしまいます。戦争へ行く人たちを鼓舞するような軍歌を作り続けた後の人生と、上海にわたりジャズにこだわり続けた人生とでは、おそらく作る曲も違っていたでしょうね。1993年1月30日、服部良一は85歳で亡くなりました。その翌月の2月26日には国民栄誉賞が授与されています。

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