#128「国民に希望を与え、絶望した孤高のランナー」円谷幸吉

非常識人列伝

世界を動かした非常識人列伝 第128話

円谷幸吉(1940年〜1968年)
日本のマラソンランナー

円谷幸吉は1940年、福島県に生まれました。子どもの頃に、兄の影響で陸上競技を始めた円谷ですが、持久力はあったもののスピードは遅かったそうです。しかし、コツコツと真面目に練習をする性格で、地道な努力によって高校時代にはインターハイに出場するまでに。ただ、それでも世間から注目されるほどの選手ではなかったといいます。

円谷の資質が開花するのは高校卒業後、自衛隊に入隊してから。陸上部がなかった郡山自衛隊に所属していた円谷は仲間たちと陸上部を創設しました。そこでも地道な練習に励み、さらに畠野洋夫というコーチに出会うことで、周囲が驚くほどの結果を出し始めるのです。東京オリンピック直前の1963年。5000mで日本新記録を次々と更新。ついに1964年、東京オリンピックの1000mとマラソンの代表選手に選ばれました。

東京オリンピックでは1000mで6位入賞、マラソンでは銅メダルを獲得。円谷は日本のマラソン史上初めてのメダリストとなったのです。国民は円谷に熱狂し、復興の希望に沸き立ちました。しかし、これは円谷にとって悲劇の始まりでした。日本の代表としてメダルをとった円谷ですが、国民は4年後、メキシコオリンピックでの金メダルを期待します。

現代はオリンピック代表選手が「自分のために走ります」「楽しみたいと思います」と、国の代表である前に一個人なんだということを主張できる時代になりました。しかし、第一回目の東京オリンピックが開催された当時は違います。まだまだ戦後処理の風景がそこかしこに見られ、そこから国民が一丸となって抜け出そうとしていた時代。オリンピックは国威発揚の場でした。出場するならメダルを、銅をとったなら次は金を! そんな国民からの期待を円谷は一身に背負うことになったのです。

銅メダルをとったあと、円谷は腰痛に悩まされるようになり、思うように練習ができなくなりました。当然、レースでも結果を出すことができません。さらに、コーチであった畠山の転任。結婚話の破談など、公私ともに様々なトラブルが円谷を襲います。しかし、どんな時にも弱音一つ吐かずに練習を続けてきた円谷。彼には誰にも相談することなく、1967年1月9日、体育学校宿舎の自分の部屋で自死してしまいました。

「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」。円谷は悲痛な胸の叫びを吐露できたのは死んでしまってからという結果になってしまったのです。もし、彼が生前、誰かにこの思いを発することができていたなら、彼の活躍は続いていたのでしょうか。それとも、誰かに弱音を吐けるような性格なら、日本のマラソン史上初のメダリストは誕生していなかったのでしょうか。

タイトルとURLをコピーしました