#84「黒澤明に憧れた男はつらいよ」山田洋次

非常識人列伝

世界を動かした非常識人列伝 第84話

山田洋次(1931年〜)
日本の映画監督

山田洋次は松竹の大船撮影所出身の映画監督です。松竹大船撮影所と言えば小津安二郎を輩出した映画界の聖地でした。しかし、ここでも芸術の変革の嵐が吹き荒れました。1960年代のことです。

当時、小津安二郎はすでに名匠としての名を欲しいままにし、大船調と言えば小津作品のような家族を描いた上品なホームドラマを指していました。しかし、フランスのヌーベル・ヴァーグ、アメリカのニューシネマなど世界で同時多発的に起きた「新しい映画」の波は「松竹ヌーベル・ヴァーグ」として日本映画にも押し寄せました。

そんな中、大島渚、篠田正浩、吉田喜重らは新進の気鋭として、また松竹ヌーベル・ヴァーグの騎手として台頭。少し遅れてデビューした山田は地味な存在でした。当時、山田は大船撮影所の大先輩であり世界でも評価され始めていた小津安二郎について「毎回、同じ話ばかりで面白くない」「なにも起きず、ドラマチックではない」と否定的でした。そこで、自分は喜劇を中心として毎回工夫を凝らした作品を作ろうとしていたのです。

山田が敬愛していたのは黒澤明でした。ある時、山田は黒澤の自宅に招かれました。そこで、小津作品を熱心に見ている黒澤を見て大いにショックを受けたのです。1968年、山田は連続テレビドラマ『男はつらいよ』の原案・脚本を担当。この作品がヒットし映画化されると、その後50年間で50作品が作られる国民的映画シリーズと呼ばれるまでになったのです。ある意味、家族の姿を描き続けた小津映画を否定しながら、山田は小津よりも数多い家族の映画を作り続けたのです。

山田は近年になって、あれほど否定していた小津作品が自分の中に脈々と息づいていたと語っています。『男はつらいよ』シリーズの渥美清が亡くなってすでに25年。しかし、山田洋次の創作意欲はまだまだ衰えず、小津作品の舞台化や新作映画の演出など、大船調後継者としての活躍が続いています。

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