#121「望まれる政治家を世に送り出した人」市川房枝

非常識人列伝

世界を動かした非常識人列伝 第121話

市川房枝(1893年〜1981年)
婦人運動家であり政治家

市川房江は愛知県の農家の三女として生まれました。父親は自分には学がないから貧しい農業から抜け出せない、というコンプレックスがあり、その分、市川の教育には熱心でした。市川房枝の兄はアメリカに留学していますし、長女も師範学校で学びました。また、妹は女学校を出た後渡米し、日系アメリカ人と結婚しています。

市川自身は愛知の師範学校に進学。しかし、良妻賢母を標榜する教育方針に反抗し、同級生たちと授業をボイコットしたことがあったそうです。このあたり、婦人運動家として名を馳せることになる将来を予感させますね。

卒業後、新聞記者になった市川は平塚らいてうと知り合い、1919年に日本初の婦人団体新婦人協会を設立しました。しかし、当時はまだ女性の集会結社を禁じる法律があり、彼女たちはその法律の改正を求める運動からスタート。1924年には婦人参政権獲得期成同盟会をつくり、婦人参政権の獲得を求める運動を本格化したのです。

婦人運動を展開した女性というと、いわゆる強健で男勝りな人物を想像するかもしれません。しかし、市川房枝はそうではありませんでした。婦人参政権を獲得する運動にしても、まずは国策に協力する姿勢を見せ、相手の懐に入り込み、婦人の政治的な権利獲得を目指す方針をとりました。敢えて、保守派である大政翼賛会と手を組み、大日本言論報国会理事に就任したのです。

さらに1945年に婦人参政権が認められてからも、市川は自ら立候補しませんでした。彼女は「出たい人よりも出したい人」を理想とする選挙を標榜していたのです。何があっても議席を取らなければ、という確固たる意思と、理想を追求する柔軟さ。その両方を兼ね備えたところが、市川房枝の人としての懐の深さとなり、多くの人の尊敬をいまも集め続けている要因なのでしょう。

彼女の心の底には選挙を浄化したいという気持ちがありました。だからこそ、政党を越えて人を評価したり、右翼の大物や暴力団の組長に協力することもいとわなかったのです。1980年、衆議院議員選挙で、市川房江は87歳の高齢にもかかわらず全国区でトップ当選を果たしましたが、その翌年、心筋梗塞のため議員在職のまま死去。しかし、彼女の意思を継いだ多くの人々が今も脈々と未来のために活動を続けています。

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