#134「日本経済の基礎を築いた男」渋沢栄一

非常識人列伝

世界を動かした非常識人列伝 第134話

渋沢栄一(1840年〜1931年)
実業家であり財界の指導者

テレビの大河ドラマでも知られるようになった渋沢栄一。次の紙幣の図柄としても選ばれ、いまや知らない人はいない存在です。しかし、実際に彼がどんなことをした人なのか、ということになると知らない人も多いのではないでしょうか。渋沢栄一は1840年、埼玉県深谷市に生まれました。恵まれた家で、農業だけではなく養蚕や藍染めなどを手がけていたようです。若い頃から家業を手伝っていた渋沢は、そこで経済感覚を磨いたのだと言われています。

渋沢は時代を読むことのできる人でした。若い頃は尊皇攘夷派の一員として活動し、その後、徳川慶喜に仕えることになります。やがて慶喜が将軍になると渋沢も幕臣となり、万博使節団としてフランス視察を経験するのです。ここで、渋沢は西洋の産業に触れ、後に日本で初めての株式会社を設立するに至りました。これが政府の目にとまり、彼は実業家へと転身。現在のみずほ銀行、王子製紙、東洋紡績、東京ガス、東京海上日動など、500以上の会社設立に関わったのです。

さらに、東京株式取引所や手形交換所の設立にも関わり、日本資本主義の父とまで呼ばれるようになりました。しかし、彼の功績はいわゆるビジネスの世界だけに収まるものではありません。渋沢は素晴らしい会社を育成するためには、素晴らしい人材が不可欠であり、そのための学校が必要だと、大学設立にも尽力し、自ら校長も務めました。

ただ、渋沢本人が品行方正な人なのかと言うと、意外にも直情型でもあったようで、若き日の尊皇攘夷派であった頃は、高崎城を襲撃しようと計画を練り実行に移そうとしたこともありました。また、評伝にもあるように女性関係はなかなか盛んで、多くのお妾さんがいて子どももたくさん設けました。息子の秀雄は「同級生にも父の子がいて、半分他人のような、半分兄弟のような関係だった」と語っています。

国を愛し、人を愛した渋沢栄一は、偉大な実業家でありながら、少し困った家庭人でもあったようですね。でも、そんなことを知れば知るほど、人としての渋沢栄一の魅力が見えてくるような気がします。

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