#137「世界を知り、日本を変えようとした思想家」福沢諭吉

非常識人列伝

世界を動かした非常識人列伝 第137話

福沢諭吉(1835年〜1901年)
日本の啓蒙思想家、教育者

思想家、教育者として名高い福沢諭吉。一万円札の肖像画になったり、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」といった言葉でも有名です。諭吉が名高い思想家、教育者となった大きな要因は、やはり海外に出向き、日本を外から眺めることができたからではないでしょうか。

大分に生まれた諭吉ですが、十代の終わりに兄の誘いでオランダの砲術を学ぶために長崎に移ります。当時も長崎はオランダとの貿易が盛んで、オランダを通じて入ってくる西洋の学問や文化、技術などを総称して蘭学と呼んでいました。諭吉は大砲などの技術、砲術を会得すると蘭学全般に興味を持ちました。長崎で蘭学を学んだ後、次に大阪では緒方洪庵の適塾に入門。そして、23歳で江戸に出ると、蘭学塾という私塾を開くことになります。この蘭学塾こそ、慶應義塾の前身です。現在の慶應義塾大学は学生数3万人を越えるそうですが、出来たばかりの蘭学塾の生徒は3〜4人しかいませんでした。

ここまでは、ほぼ独学で学問を学んでいた諭吉に、大きな転機が訪れます。それは、アメリカへの渡航。日米修好通商条約の批准書を交換するための出航する幕府の咸臨丸に乗船したのです。このアメリカへの渡航は諭吉に大きな衝撃を与えました。そして、さらに翌年にはヨーロッパへ派遣され、諭吉はアメリカ・ヨーロッパでの見聞を『西洋事情』という本にまとめました。この本は20万部以上も売れたそうです。

諭吉はアメリカの自由と平等の精神にいたく感銘を受け、自分の私塾の名前を『慶應義塾』と改めました。ここには、社会貢献できる人材を育成したいという想いが込められ、諭吉がアメリカで見聞きしてきたような自由で平等な社会の実現を、彼は目指したのです。

こんなふうに紹介してくると、諭吉はとても優しい人のようにも感じられますね。でも、実際にはなかなか厳しい人だったようです。特に不平不満をいう人を許さないという性格だったといいます。諭吉自身が子どものころからお金に苦労し、不満を言わずに働き続けてきたからでしょう。教育者になってからも「馬鹿は不平多し」「空き樽はよく鳴る」などと色紙に書きつけては、生徒に渡していたそうです。いまなら炎上しそうな先生ですね。

タイトルとURLをコピーしました