#145「国際的なスケールの無邪気な映画監督」大島渚

非常識人列伝

世界を動かした非常識人列伝 第145話

大島渚(1932年〜2013年)
日本の映画監督

大島渚は日本を代表する映画監督です。フランスでトリュフォーやゴダールがヌーヴェル・バーグ旋風を巻き起こした少しあと、日本でも松竹ヌーヴェルバーグという新しい映画群が生まれました。これまでのようなスター至上主義の映画ではなく、もっと若者の心を震わせるような新しい映画を生み出そうとする動きが世界中で同時期に誕生したのです。そんな新しい映画を作る監督の日本代表が大島渚でした。京都大学を卒業後、松竹に入社した大島は、1959年に監督デビュー。長編第一作の『愛と希望の街』も、当初の『鳩を売る少年』からタイトル変更を余儀なくされるなど、波乱含みの船出でした。

大島はその後『青春残酷物語』や『太陽の墓場』など、これまで松竹が主流としてきた落ち着いた松竹映画とは違う、等身大の生々しい作品でヒットを飛ばします。しかし、1960年に発表した『日本の夜と霧』が松竹によって公開から4日で打ち切られると同社を退社。仲間たちと映画製作会社を設立します。映画だけではなくテレビの世界でも話題作を次々と発表していきました。

1976年『愛のコリーダ』、1983年『戦場のメリークリスマス』、1986年『マックス、モン・アムール』と世界公開を前提とした映画作りが続き、『世界のOSHIMA』として名を馳せました。しかし、大きな映画会社に属さない映画作りは資金的な困難がつきまとい、世界のOSHIMAにとっても厳しい現実と戦いの連続でした。1980年代後半からはテレビの討論番組への出演等も行いながら映画製作を進める日々だったのです。

大島渚は知的な映画監督である側面と、まるで子どものように短気で喧嘩っ早い側面が共存した人でした。テレビの討論番組ではどんな論客にも屈せず、意見が通らないと「バカヤロー!」と叫ぶキャラクターで人気を博しました。また、女優である妻・小山明子との結婚30周年のパーティーでは、酔っ払った親友・野坂昭如と殴り合いを繰り広げたことも。しかし、そんな2人の大喧嘩を大島の妻である小山明子は「大酒飲みで、やりたいことを貫いてきた、スケールの大きな男たちだった」と後に笑顔で語りました。

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