#147「命を紡ぐように小説を書いた文豪」夏目漱石

非常識人列伝

世界を動かした非常識人列伝 第147話

夏目漱石(1867年〜1916年)
近代文学の巨匠

夏目漱石と言えば、明治の文豪。『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『三四郎』『それから』『こゝろ』『明暗』など、数々の名作を発表しました。森鴎外など同時代の作家に比べると、口語で書かれた作品も多いことから、いまも大人から子どもまで読み継がれているのでしょう。映画や舞台になった作品もたくさんあります。

そんな漱石の逸話はたくさんのこされていますが、どれも漱石の繊細さを伝えているように思います。例えば、肘をついて考え込むようなポーズの有名な写真がありますね。実はあれも容姿を気にしていた漱石の性格を反映しているようなのです。彼は子どもの頃にかかった天然痘の跡を気にしていて、写真に写るときには顔の右側を隠すようにしていたそうです。

そんな繊細な漱石にとってイギリス、ロンドンへの留学は辛いものだったようです。英語の勉強に出向いたにもかかわらず、自分の英語が伝わらないことにショックを受けたり、東洋人に対する差別に

そして、引きこもりのような状態になり部屋で泣いていたり、日本にいるときにはなにかと辛く当たっていた妻子に「恋しい」とラブレターを送っていたといいます。帰国後もノイローゼ状態は続き、少し不安定な精神状態になってしまいました。しかし、そんな精神状態を立て直すかのように、漱石は積極的に小説を執筆し、名声を確立していったのです。

生涯にわたり小説を書き続けた文豪というイメージが強い夏目漱石。しかし、彼が小説を書いていた期間は約10年です。たった10年の間に漱石はたくさんの作品を発表しました。若い頃から神経衰弱を患っていた漱石。そして、ロンドンで自分自身の弱さに直面し神経衰弱を悪化させた漱石。さらには帰国後、大学で教鞭を執るも前任の小泉八雲と比べられ傷ついてしまった漱石。そんな数々の苦難の中、漱石に小説執筆を進めたのは高浜虚子でした。

気分転換のために、家に迷い込んだ黒猫を主人公にした『吾輩は猫である』がベストセラーになり、小説家としての夏目漱石が誕生しました。しかし、小説家としてヒット作を連発しても、漱石の神経衰弱は全快はしませんでした。やがてそれは胃潰瘍になり、晩年の漱石を苦しめることになったのです。

1910年8月、漱石は伊豆の修善寺で大量に吐血し、意識不明の重体に。回復しましたが、これ以降、漱石は何度も胃潰瘍を再発し精神的に不安定になっていきます。さらに幼い娘の死や親友の死が追い打ちをかけるのです。それでも、漱石は自分自身の命を紡ぐように小説を書き続けました。1916年11月に胃潰瘍の再発で漱石は倒れ、12月に息を引き取りました。漱石が倒れた時、机の上には連載中の『明暗』の原稿があったそうです。そこには「連載回数189」という数字だけが書かれていました。

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