#173「戦乱のハンガリーを治めた偉大な母」マリア・テレジア

非常識人列伝

世界を動かした非常識人列伝 第173話

マリア・テレジア(1717年〜1780年)
ハプスブルブ帝国の君主

女帝として知られるハプスブルグ家のマリア・テレジア。彼女は生涯に16人の子宝に恵まれた母でもありました。その中の一人は世間を騒がせたマリー・アントワネットですね。娘と同様、マリア・テレジアも子どもの頃はおてんばな娘だったようです。しかし、勉強もよくでき、数学や語学にも長けていたようです。

彼女の人生が大きく変わるのは、父であるカール6世に息子が出来ず、後継者がいなかったから。そして、彼女が結婚し、3人の娘を設けた頃に父が急死してしまうのです。その遺言に従いハプスブルク家を継いだマリア・テレジアのもとには、次々と困難が襲いかかります。

父のカール6世は対外的な戦争に明け暮れていたので、オーストリアは財力も無く、軍事力も風前の灯火。周囲の国々は今がチャンスと23歳のマリアの継承に異を唱え、戦争を仕掛けます。この戦争でオーストリアは大きく領土を失うことになったのです。

しかし、オーストリアの内政は父の時代と違い安定していました。それはマリアの人柄のおかげ。宮廷で働く人たちに細やかな気遣いを見せたことで、マリアを中心に人々は一致団結することになったのです。だからこそ、戦争中も女帝マリア・テレジアは子どもをたくさん生み続け、全部で16人の子宝に恵まれました。

フランスに嫁いだマリー・アントワネットは下から二番目の娘でした。マリアはマリーにも「夫婦仲が大切」と教育していましたが、その辺りはなかなかうまくは伝わらなかったようです。マリーのワガママで放蕩な暮らしぶりが、嫁ぎ先のフランスから聞こえてきます。娘を案じたマリアは「自分の夫を大切にするように」という手紙を送り続けたそうです。その手紙のおかげか、マリー・アントワネットも子どもを産んでからは生活が落ち着いてきました。

ただ、時代の荒波のなかでフランスにはきな臭い風が吹き始め、大切な娘であるマリー・アントワネットは命を落とすことになります。マリア・テレジアのせめてもの救いは娘よりも先に亡くなったこと。女帝と言えども、我が子の死を知らされるほど辛いことはないはずですから。

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