#176「アメリカで活躍し映画用語となった日本人俳優」早川雪洲

非常識人列伝

世界を動かした非常識人列伝 第176話

早川雪洲(1886年〜1973年)
アメリカで活躍した日本の俳優

早川雪洲は千葉で生まれました。21歳で単身アメリカに渡り、ロサンゼルスの日本人劇団で活躍したあと、1913年にハリウッドで映画デビューしました。今よりも遙かに人種差別の激しかったアメリカで、雪洲は大人気を博し、サイレント映画時代を代表するセックスシンボルと言われるまでに人気を博します。その人気はすさまじく、十代から中年の主婦まで幅広い層のファンを獲得し、フランス人作家のコレットも雪洲を絶賛したといいます。現在でも日本の映画業界では、背の低い俳優を台の上にのせて撮影することを「せっしゅうする」と言いますが、これはハリウッドで少し背の低かった雪洲のために台を用意して撮影したときの言葉が業界用語のなったものなのです。

しかし、第一次世界大戦以降、日本人に対する排斥運動が盛んになります。雪洲にも日本人のイメージとかけ離れた差別を助長するような役が数多く来るようになりました。残忍な日本人に役を演じたあとには、アメリカに住む同胞である日本人から非難されることも多かったようです。そのため、雪洲はいったんハリウッドを離れ、中国が舞台の作品を撮るなど活路を見出そうと躍起になりました。しかし、日本人や有色人種に対する排斥、迫害はさらに激しさを増しました。1920年代に日本に一時帰国した雪洲はここで信じられないほどの歓迎を受け、東京駅では雪洲をひと目見ようとした人々が押し寄せたといいます。

日本では英雄視する人がいる一方で「国賊」「売国奴」といった非難も受け、雪洲は再びアメリカへと戻りました。雪洲の新たな快進撃はここから始まりました。ブロードウェイとヨーロッパで新たな活躍の場を見出したのです。そこではミュージカルにも進出し、役柄の幅を広げました。その後は、再びハリウッドに復帰したり、日本に帰国したり、大作映画に出演しながら晩年を迎えました。

そんな早川雪洲は賭け事など遊びが大好きだった反面、仕事には几帳面に向き合う人だったようです。ある役者は「仕事に入った雪洲は決して面白い人間ではなかったよ」と伝えています。それでも、彼は1910年代のハリウッドではチャップリンに匹敵するほどの人気を博しました。そんな雪洲は、日本人で初めて米国アカデミー賞にノミネートされるほどの人気と、激しい人種差別、日本での歓迎と非難をどんなふうに受け止めていたのでしょうか。

晩年、日本の今村昌平監督から『神々の深き欲望』への出演オファーがありましたが、本人の体調と台風による撮影中断から降板となり、以来、映画への出演はありませんでした。最晩年には痴呆症を患い、転倒による骨折から臥せったまま帰らぬ人となった早川雪洲。葬儀も近親者だけの小さなものでしたが、旧皇族である東久邇宮稔彦王から送られた生花が最後の手向けになりました。

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