#181「境界線の向こう側を見つめた心優しいギリシャ生まれの小説家」小泉八雲

非常識人列伝

世界を動かした非常識人列伝 第181話

小泉八雲(1850〜1904年)
ギリシャ生まれの小説家

小泉八雲の本名はパトリック・ラフカディオ・ハーンといいます。1850年にレフカダ島(当時イギリス領、後にギリシャに編入)で生まれました。父親の仕事の関係で、インド、パリ、ダブリンと移り住み、1869年にアメリカへ。得意だったフランス語を活かして、ジャーナリストとして活躍しました。1890年、アメリカの出版社の通信員として日本へやってきた彼は、来日後に日本で英語教師となり翌年結婚しました。日本に来てからも、松江、熊本、神戸、東京と移動しながら、日本の英語教育に力を尽くし、同時に日本の文化を欧米に紹介する著作を数多く手がけました。

では、なぜ八雲はこんなにも日本を愛したのでしょうか。そのきっかけは『古事記』にあると言われています。アメリカでジャーナリストを始めた頃に、八雲は翻訳された『古事記』を読んだそうです。そして、同じ頃、日本を旅行した知人から聞いた「日本は汚れをしらない無垢な国だ」という言葉で日本行きを決意したといいます。そこで、日本の美しい自然と出会い、妻を始めとする様々な人々と出会うことで、日本人になることを決意したのです。

しかし、八雲はもともとすべてのものの境界線を信じてはいませんでした。だからこそ、若い日には州の法律に違反してでも黒人女性と結婚しようとしたこともありました。日本に移り住み、東洋人である妻のセツと結婚することにもなんの抵抗もなかったようです。

肌の色の違いだけで、人と人との間になんの違いがあるのだろう。この世とあの世の間に、明確な境界線などあるのだろうか。そんな純粋な視線が、あれだけ活き活きとした人物描写を伴った怪談の執筆へとつながったのかもしれません。そして、八雲のそんな純粋さに妻のセツもできる限りの協力をしました。日本の神話や昔話を収集し、周囲の人たちからいろんな話を聞き、そのすべてを夫である小泉八雲に聞かせました。そんな、セツを通してもたらされた日本の美しい心を、八雲は文章に綴っていきました。

ここまで日本を愛し、自分自身も日本人になった心優しい小泉八雲。しかし、そんな彼も、晩年には「日本の将来のためには、自然との共生やシンプルな暮らしの維持が必要だ」と語り日本に警鐘を鳴らしたそうです。

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