#191「備中聖人と呼ばれた幕末の儒家」山田方谷

非常識人列伝

世界を動かした非常識人列伝 第191話

山田方谷(1805〜1877)
備中松山藩士であり儒家・陽明学者

山田方谷は幕末の備中松山藩士でした。江戸時代、幕府公認の学問と言えば儒教。多くの人々が儒教を学び、人と人との関わりや知識を研鑽していたのです。その学びの大系となっていたのは朱子学。この朱子学というのは簡単に言えば、儒教をしっかり学べば誰もが聖人の域に達することができますよ、というもの。しかし、この朱子学の中には上の者には従うこと、という考え方があり、これは当時の幕府にとっては都合の良いものだったのです。

これに対して、山田方谷が学んだ陽明学は自分の人生のなかでは、自分自身が主役である、という考え方が宿っていました。人間も聖人ももとは同じ人間。学問を学ぶことで心を育て、その心を信じて行動すれば誰もが聖人の域に達することが出来る、と言う教えでした。こんなふうに紹介してくると、読者のみなさんには陽明学の危険性もおわかりいただけるはず。つまり、陽明学はそれを学ぶ人が邪悪な心を持っていると身勝手な解釈を施し、ろくな結果が出ない場合があるのです。

山田方谷は朱子学と陽明学の両方を学んだ人でした。両方の欠点と長所をしっかりと学んだ山田方谷は自らを律して仕事に励む藩士となりました。その働きは時の藩主にも厚い信頼を得て、備中松山藩の財政再建に取り組んだり、晩年には武士以外の人も学ぶことができる私塾を開いたりしています。

山田方谷が現在にまで名前を残し、備中聖人とまで呼ばれているのは、政治に関わるときにも教鞭を執るときにも、常に公明正大な姿勢を貫いたところにあります。藩の借金返済を先延ばししてもらうときも、自ら債権者に足を運び頭を下げたそうです。また、備中の特産品である備中鍬、煙草、茶、和紙、柚餅子などの生産を奨励して利益を上げるときにも、生産者にきちんと利益が渡るように配慮しました。同時に、上級武士にも贅沢を禁じ、賄賂や接待を禁じたのです。

現代の政治家たちが忘れてしまったような政治の原点とも言うべき公明正大な取り組みと、将来を見極めたビジョンで当時の藩主からも「方谷の言うことは私の言うことである」とまで言わせる絶対的な信頼を得ていました。自らの暮らしが苦しくなっても藩全体のことを考えた山田方谷。彼の改革のおかげで備中松山藩は2万石程度だった収入が10年で20万石になり黒字へと回復したそうです。その後、明治の世になっても彼を慕う政治家や実業家は絶えず、方谷が亡くなった後もその偉業は讃えられ、かつて私塾があった場所に近い鉄道の駅は住民たちの願いで『方谷駅』と名付けられました。人の名前が駅名になった日本で初めての駅だそうです。

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