#216「植物の輝きを見つめ続けた人」牧野富太郎

非常識人列伝

世界を動かした非常識人列伝216話

牧野富太郎(1862〜1957)
日本の植物学者

牧野富太郎という人を一言で言い表すとするなら、植物を愛するために生まれてきた人、と言えるのではないでしょうか。それほど富太郎は子どもの頃から植物が大好きで、生涯を通して、数多くの新種を発見。日本の植物分類学の基礎を築きました。

富太郎は高知県高岡郡佐川町に造り酒屋の跡取り息子として生まれました。3歳で父を亡くし、5歳で母を亡くし、6歳で祖父を亡くした富太郎は躾の厳しい祖母の元で育ちました。子どもの頃から勉学に才を発揮した富太郎。11歳で士族の子弟が学ぶ名教館で、英語や地理、天文、物理など幅広い学問を学びました。しかし、学制改革によって開校した小学校には馴染めず、2年で中退。富太郎は好きな植物採集に明け暮れるようになりました。

生家の酒屋からの援助を受けながら、富太郎は東京で本格的に植物分類学を学びます。26歳で『日本植物志図鑑』を自費で刊行。この時、富太郎は印刷工場に出向き、印刷技術を学び、植物の図版は自ら描いたそうです。彼の植物図鑑制作は生涯をかけたライフワーク。78歳の時、刊行された『牧野日本植物図鑑』は彼の植物研究の集大成でした。しかし、集大成である図鑑を出版しても富太郎の作業は終わりません。初版本が真っ赤になるまで校正を加え、何度も何度も改訂増補を重ねました。

そんな富太郎の植物への愛は、彼自身の人生を後押ししたかのように、富太郎の世界を押し広げました。小学校中退なのに小学校で教員をしたり、31歳の時には東京大学の助手として採用されています。また、研究に没頭するあまり借金がかさみ、どうしようもなくなるといつもどこかから救世主が現れ、借金の清算をしてくれたりするのです。

それもこれも、富太郎の植物に対する愛に、誰もが並々ならぬものを感じたからに違いありません。しかし、本人はお金にも名声にも頓着しません。周囲からの強い勧めで仕方なく受けた学位試験に通り、東大の博士になったのは65歳の時でした。

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