#218「映画女優として生きた大スター」田中絹代

非常識人列伝

世界を動かした非常識人列伝218話

田中絹代(1909〜1977)
日本の女優

田中絹代は昭和の名女優と言われる大スターです。特に映画を愛し、映画女優として名声を得ました。14歳でデビューし、17歳で主役に抜擢。以降、67歳で亡くなるまでの間に、実に約250本の映画に出演しました。

また、日本では女優として初めて映画監督になりました。生涯で6本の映画を監督しましたが、近年、その作品が海外でも高く評価され、日本でも映画監督としての田中絹代を再評価する気運が高まっています。

田中絹代は黒澤明、小津安二郎、溝口健二、成瀬巳喜男など名だたる名匠から愛されました。しかし、人気絶頂の1950年、田中絹代は大バッシングに見舞われます。前年の1949年、田中は日米親善大使節としてアメリカに渡ります。それから3ヵ月間、ハワイやハリウッドを回り、50回以上の公演をこなしたそうです。戦後すぐだったため、迫害された経験を持つ日系人からも大歓迎を受けました。また、ハリウッドではベティ・デイヴィスやシルヴィア・シドニーと親交を深め、最先端のメイクアップなども教えてもらったと言います。

それが裏目に出たのかもしれません。1950年に帰国した際、飛行機から降り立った田中はアフタヌーンドレスに毛皮のコート、さらにサングラスをかけて、「ハロー!」とあいさつしました。銀座でのパレードでは投げキッスを連発するというサービスぶり。しかし、その様子が報道陣からは「アメリカかぶれ」「アメリカン女優」などと批判され、ファンからも反感を買い、一大バッシングへと発展してしまったのです。

人気女優は自殺を考えるほどのスランプに陥りました。「ファンレターが一通もこなくなった」と知人にもらすほどのバッシングに、田中は鎌倉の住まいに引きこもります。しかし、いつまでも隠れているわけにはいきません。そんな彼女を立ち直らせたのも、また映画でした。

田中は1953年、映画監督・成瀬巳喜男に弟子入りし、映画監督を目指します。「スター意識を捨てろ。マイカーで来るな。撮影中は30分前に準備しろ。撮影中は座るな」など、成瀬の厳しい指導にも耐え、その年の12月、田中は初めての監督作品『恋文』を完成させました。日本では二人目の女性映画監督、女優から転身した監督としては初めての人でした。作品は大ヒットには至りませんでしたが、前述の通り近年になって再評価の気運が高まり、上映される機会も増えています。映画を愛し、映画に翻弄された田中絹代の魂を再び映画の神様が愛し始めたのかもしれませんね。

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