#219「日本の産業を創造した男」山尾庸三

非常識人列伝

世界を動かした非常識人列伝219話

山尾庸三(1837〜1917)
日本の政治家

山口市に生まれた山尾庸三は若干20歳で東京、当時の江戸に行き、桂小五郎と出会います。この出会いが山尾の人生を変えていきます。山尾は江戸の剣術と兵学を学び、23歳で幕府の命をうけてロシアへと旅立ちます。この時、彼は船の修理工場を視察。職人が一人で作業するのではなく、複数の人たちが同時に作業をする工場という概念を学んだのです。

やがて、山尾は長州ファイブの一員となりロンドンへ。英語を学んだ後、土木工学を学んでから、彼はグラスゴーへと移動し、ここで造船学を学びました。英語と土木学と造船学を学んだ山尾への期待は大きく、幕府が作った造船所を再稼働する仕事につきました。

しかし、山尾はいま必要なのは「生きた器械」だと考えました。この言葉は一緒にイギリスに留学した長州ファイブの一人、井上聞多の言葉だと言われています。つまり、留学をしてきた者がその知識で何かを作るよりも、その知識を次の者に引き継ぐことで、人材育成や工業の振興に当たることが大切だと考えたのです。

山尾は工業を復興させるために学校を作ることを提案。これが現在の東京大学工学部へとつながっていきます。同時に、。工業デザインの重要性にも着目した山尾は、現在の東京藝術大学にあたる工部美術学校の設立にも尽力しました。

山尾庸三の功績は、世界を見聞きしたことと、それを日本に導入したこと。さらに、その発展のために人材育成がなによりも大切だということに気付いたことだと言えます。そして、自分自身が懸命に働くことが周囲の人たちの役に立つという確信を持っていたからこそ、数々の実績を残すことができたのだと思います。

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