#240「小さな巨人と呼ばれた国連高等弁務官」緒方貞子

非常識人列伝

世界を動かした非常識人列伝240話

緒方貞子(1927〜2019)
日本人初の国連難民高等弁務官

緒方貞子は1927年、東京に生まれました。貞子と名付けたのは犬養毅。そう、彼女は第29代内閣総理大臣のひ孫だったのです。緒方の祖父も父も外交官で、子どものころから親戚が集まると日常的に政治が話題になる環境でした。

緒方はその後、アメリカ留学などで国際情勢と政治を肌で感じながら学びました。そして、1976年には日本人女性として初めての国連公使となりました。さらに1991年には日本人で初めて、また女性として初めて、国連難民高等弁務官に就任。もちろん、周囲は緒方にどれだけの仕事ができるのか懐疑的だったはずです。しかし、そんな不安を緒方は一蹴します。それは、彼女が徹底した現場主義を貫いたからです。難民が集まり、その中でも抗争があり、危険極まりない場所であっても、緒方は必ず現場に赴きました。そして、その状況から発せられた言葉は決してぶれなかったのです。

ルワンダの難民キャンプは混沌としていました。殺戮から逃れてきた難民と、殺戮していた側の難民が同じキャンプ内にいたのです。緊張するキャンプでは疫病のコレラまで流行し死者が続出しました。緒方さは世界中のネットワークに声をかけ、武装難民に攻撃を行わないように圧力をかけました。どんな時にも人命を優先しなければならないと感じたからです。政治的な駆け引きで人の命が利用されることがあってはならない。緒方はそう訴え続けました。

また、サラエボでは封鎖された地域に救援物資が届けられないという状況に。緒方は世界の軍隊に要請を出し、救援物資を空輸してもらいました。しかし、空輸するための飛行機が撃墜される事件が起きたのです。思い悩みながらも緒方は諦めませんでした。民族指導者たちに現状を訴えました。「輸送の妨害をやめてください。そんなことは許さない」と。

救うべき人たちがいる。その人たちの命を救う以外に私たちの務めはない。そんな緒方の考えが決してぶれなかったのは、彼女が現場主義を貫いたからです。そんな現場主義が、いまも緒方の背中を見て育った外交官たちの礎になっています。

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