#259「ブルースの女王として一時代を作った歌手」淡谷のり子

非常識人列伝

世界を動かした非常識人列伝259話

淡谷のり子(1907〜1999)
日本の歌手

淡谷のり子は青森に生まれました。青森の言葉で、じょっぱり(強情っぱり)と呼ばれるほど気が強かったと言われていますが、実際には心優しい人だったと言う人もたくさんいます。ただし、本業である歌に関しては一家言持っており、1960年、紅白歌合戦では出場歌手について、「今の若手は歌手ではなく『歌屋』に過ぎない。歌手ではなくカス」と言い放ち賛否両論を巻き起こしたと言われています。

歌手に対して厳しい姿勢を持ち続けたのは、淡谷自身が戦争の最中にも自分の歌にこだわり続けたからかもしれません。第二次大戦中、淡谷も軍の慰問活動で歌うことがありました。会場で「化粧やドレスは辞めてくれ」と言われても、淡谷は決して辞めませんでした。化粧とドレスは歌手の戦闘服だという信念を曲げることなく、禁じられていたパーマをかけ、自分の歌を歌い続けました。淡谷が歌う『別れのブルース』を聞いた若き兵士たちは淡谷の手を握り締めて、泣きながら感謝し、出撃して行ったといいます。そんな経験があるからこそ、淡谷のり子は決して歌を疎かにせず、同時に歌を疎かにする歌手を嫌いました。

戦後はバラエティ番組などにも進出。モノマネ番組では辛口の審査員を務め、視聴者である若者にも慕われました。厳しい審査の合間にふと見せる微笑みに、人の良さを滲ませた淡谷。若い頃からの歌を愛する姿勢と反骨精神が、若者の心も動かしたのかもしれません。そう言えば、淡谷は若い頃、ヌードモデルもしていたそうです。このことについて、本人は「私ほど売れっ子のヌードモデルはいなかった。津軽女の肌の白さが気に入られたのよ」と話していたそうです。

『別れのブルース』『雨のブルース』などの大ヒットでブルースの女王と呼ばれた淡谷のり子は、1999年に92歳でなくなりました。その死はスポーツ新聞だけではなく一般紙でも紙面を割いて封じられ、テレビでもいくつもの追悼番組が放送されました。

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